重巡洋艦 最上 級

重巡洋艦 最上・三隈・鈴谷・熊野
Heavy Cruiser "Mogami, Mikuma, Suzuya, Kumano"


新造時の最上 1935

最上・三隈
(軽巡時)<*1>

鈴谷・熊野
(重巡時)<*2>

排水量
 基準状態
 公試状態

8,500英t
11,169 mt<*3>

12,000英t
13,440t
喫水線長 197.00 m 198.06 m
最大幅 18.00 m 19.20 m
喫 水 5.50 m 5.90 m
ボイラー
 基  数
 蒸気条件
 発生出力

10基
22気圧300度
15,200馬力/缶

8基
22気圧300度
19,000馬力/缶
主 機 蒸気タービン 4基,4軸
機関出力 152,000 馬力
速 力 37.0 kt 35.0 kt
航続距離 8,000nm/14 kt
燃料積載量 2,280 t
計画乗員数 830 人
主 砲 15.5cm62口径<*4>
15門(3連装5基)
20.3cm50口径
10門(連装5基)
高角砲 12.7cm40口径 8門(連装4基)
機 銃 25mm 8門(連装4基)
13mm 4門(連装2基)
魚雷発射管 61cm 12門(3連装4基)
航空機 水上機3機
カタパルト2基
装 甲 垂直
 弾薬庫 140mmNVNC(20度傾斜)
 機関部 100mmNVNC(20度傾斜)
水平
 弾薬庫 40mmCNC
 機関部 35mmCNC
建造所 最上:呉工廠
三隈:三菱長崎
鈴谷:横須賀工廠
熊野:川崎神戸
完 成 最上:1935.7.28
三隈:1935.8.29
鈴谷:1937.10.31
熊野:1937.10.31
沈 没 最上:1944.10.25
三隈:1942.6.7
鈴谷:1944.10.25
熊野:1944.11.25
<*1> 性能改善工事前の要目
<*2> 各艦昭和14〜15年に主砲を換装し重巡に
<*3> 性能改善工事後は
     基準排水量:11,200英t
     公試排水量:12,960mt
<*4> 三年式15.5cm砲の公称砲身長は60口径だが
   実際は62口径
 建造の経緯

 「重巡洋艦と同等の戦闘力を持つ軽巡洋艦」

 これが最上級の本来の目的であり,それは1930年のロンドン軍縮会議に端を発する。1921年のワシントン軍縮会議で日本は主力艦(戦艦及び巡洋戦艦)の保有量を米・英の6割に抑えられた。この劣勢を優秀な巡洋艦の保有により挽回するべく建造されたのが,条約型1万トン重巡の妙高級,高雄級であった。しかしその戦闘力が諸外国の重巡に比べ圧倒的に有力であったため,ロンドン軍縮会議においては重巡の保有量まで米国の6割に制限されてしまった。しかも米英はまだ重巡の保有量に余裕があり,今後より新型の重巡を建造することで日本の劣勢はさらに顕著なものとなる。

 この状況を打破すべく苦肉の策として設計された軽巡洋艦が最上級であり,そのポイントは主砲にあった。軍縮条約で定められた巡洋艦の定義は「主砲口径8インチ以下6.1インチを越えるものが重巡洋艦,6.1インチ以下が軽巡洋艦であり,基準排水量は共に10,000t以下」というものであった。つまり主砲が6.1インチ以下ならば排水量は重巡と同じでも良いため,優秀な6.1インチ砲を多数搭載し,防御は対8インチ砲弾防御として,重巡と同等の戦闘力を持つ軽巡洋艦とすべく設計されたのが最上級である。

 小さな主砲という不利な条件で劣勢を覆すため,最上級は全くの新機軸を用いて設計され,妙高級やその改良型である高雄級とは根本的に設計を異にする。

 そして最上級の設計でもう一つキーポイントとなったもの,それは軍縮条約の制限が無くなった時には,主砲を8インチ砲に換装して正真正銘の重巡洋艦にするという計画である。



 兵  装

 軽巡洋艦最上の第一の特徴は,15門に及ぶ三年式15.5cm62口径砲である。長砲身のため高初速であり,その射程距離は20cm砲に匹敵した。日英の20cm砲の砲身長は50口径,米の砲身長は55口径である。本砲は10cm65口径砲と並ぶ第2次大戦の日本の傑作砲であり,そのポイントは砲身の構造にあった。

 砲の口径は常に一定でなければならないが,発砲の瞬間砲身は火薬の圧力で膨張し口径が大きくなってしまう。この変形を防ぐため従来の砲では砲身内筒の周囲に張力を掛けた状態でワイヤを巻き,この張力とガス圧とを釣合わせて砲身の膨張を防ぐ成層式を用いていた。しかしこの方式では砲身が重くなり,砲身長を50口径より長くすると砲身先端の垂下がりが大きくなって命中率が低下してしまう。そこで本砲では自緊式と呼ばれる方式を採用し,砲身内筒に収縮しようとする残留応力を発生させておくことでガス圧と釣合わせた<*5>。この結果62口径という長砲身を,弾道特性を犠牲にすることなく可能とした。

 主砲に関するもう一つの特徴は,3連装砲塔5基を背負い式に配置したことである。高雄級では2番主砲等が1段高い位置にあり,この後ろに3番主砲等を後ろ向きにピラミッド型に搭載した。最上級では1・2番砲塔を低い位置に前向きに並べ,3番砲塔を1段高くして2番砲塔の後ろ上部に配置した。この結果3番砲塔の射界が広くなった。この3番砲塔と後部の4番砲塔間では甲板も一段高くし,その前後端を3・4番砲塔の支塔につなげる船体構造とした。しかしこの設計は後に述べるように主砲塔の旋回不能事件を引き起した。

 最上の15.5cm主砲は非常に高性能で用兵者にも評判が良く,後に20cm砲へ換装される際にも砲術長が現状のままでよいと主張した例もあった。しかし射程や発射速度,命中率は優れていたが,口径の問題から装甲貫徹力の点ではどうしても20cm砲に劣らざるを得なかった。

 高角砲は12.7cm40口径砲を8門と高雄級の12cm砲4門から大幅に増強され,九一式高射装置で管制した。魚雷発射管は61cm九三式酸素魚雷発射管を12門搭載し強力な雷装を持つ。高雄級では前部の魚雷発射管が艦橋横にあり,誘爆時の被害が懸念されたため,発射管の位置は極力後方に移された。

<*5> この解説は多分に私の推測が入っているので,あまり信用しないでください。専門家ではないので,余り詳しくありません。

 機  関

 高雄級に比べて大きく進歩したのが,その37ktという要求性能とそれを実現するための機関部である。機関の計画出力は152,000 SHPと戦艦大和よりも大きく,空母翔鶴・大鳳(160,000 SHP),飛龍(153,000 SHP)に次いで日本海軍艦艇中3番目の出力である。機関配置は最上・三隈と2年後に竣工した鈴谷・熊野では若干異なっている。最上・三隈はボイラーが10基なのに対し,改良された鈴谷・熊野では同出力を8基で発生している。蒸気条件は両方とも300℃22気圧で,後に大出力艦の標準となった350℃30気圧に比べ若干低い。

 最上・三隈は10缶10室,鈴谷・熊野は8缶8室の配置であり,主機は共に4基4室である。鈴谷の機関配置は機関の操作が行い易く,以後の高速大艦の標準配置となり,重巡利根級,空母翔鶴・大鳳級にも採用された。防御上は船体中心線に縦通隔壁を持ち浸水時に傾斜を招きやすいこと,シフト配置や交互配置になっていないなどの欠点もあるが,実戦で大きな問題となったことは無かった。

 新造時の最上は最大速力37ktを発揮したが,次に述べるように船体強度・復元性などの問題から性能改善工事を行い,その結果速力は35ktに低下した。しかしそれでも外国の重巡に比べれば相当に高速であった。

 防  御

 防御方式の点で最上級は高雄級と大きく異なっており,それは舷側の水線部及び水雷防御法の改良である。高雄級及び妙高級ではこの両者が分離しており,水雷防御用の湾曲防御縦壁が水線部装甲板下端から折れ曲がって船体内側へ伸びるという,かなり連続性を欠いた構造になっていた。最上では水線部の装甲の下端がそのまま減厚しながら船底まで伸び,水雷防御と水中弾防御を兼用している。この舷側装甲が水雷防御壁へ連続的につながっていく方式は戦艦大和やアイオワでも採用され,対弾防御と水雷防御をうまく兼用した最も合理的な防御方式である。水線下には当然魚雷の爆発力を吸収するためのバルジが装備されているが,水線部装甲は外部に露出している。ただし後述の性能改善工事により追加のバルジが装着された結果,大部分がバルジに覆われた状態になった。

 本級の防御は先に述べたように対20cm砲弾用であり,防御力の点では完全に重巡洋艦と同等であるだけでなく,実戦においても高い防御力を発揮した。

最上の船体横断面図(新造時・改造後)

最上級の防御要領

 舷側部装甲は減厚しながらそのまま艦底部まで達し,水中弾防御と水雷防御を兼用する。

 性能改善工事では排水量増加のためバルジを追加し,強度向上のため高角砲甲板・上甲板・艦底に強度部材が追加された。水密鋼管とは被雷・浸水時に浮力を維持し,喫水線面積を確保して復原性維持を図るための浮力保持用のパイプ。戦時に200t分が積載されることになっており,平時は積載せずに条約排水量からの超過を防いだ。

 竣工後のトラブル

 本級は1万トン重巡と比較して武装・防御力で同等,速力では上回る性能を,より少ない8,500トンの基準排水量で実現すべく設計された。この要求性能は技術的に無謀というほかはなく,事実竣工した最上は多くのトラブルを発生した。これは主として船体強度と復元性の不足であった。限定された総重量の中で過剰な性能要求を満たすため,あらゆる部分で軽量化が進められ,結果として強度不足に陥った。公試運転の結果推進器周辺の船体外板に亀裂を,艦首外板に変形を生じるという深刻な問題が発生した。また大きな武装重量に対して船体の大きさが基本的に小さすぎ,復元性にも問題があった。また3番および4番主砲塔が設計の不備により旋回不能となる問題も生じた。

 強度不足に対しては公試運転の後に補強工事を行った上で就役した。しかし演習中に2番艦三隈とともに再び外板の変形を生じたため,根本的な性能改善工事の止むなきに至った。これは1〜5番主砲塔にいたる広い範囲に大規模なバルジを追加し,2,000トン近い排水量増加の下に行われた。この重量を利用して高角砲甲板および上甲板の舷側部,船底部に20mm前後のデュコール鋼板を追加して補強を行った。また主砲塔の旋回不能は,船体中央部の一段高い高角砲甲板を強度甲板とし,この前後端を3・4番砲塔の支塔に直結した構造のため,温度の変化に伴う船体の伸縮が砲支塔に伝わり変形を生じたことが原因だった。そこで高角砲甲板と砲支塔を切り離した構造にすることでこの問題を解決した。これらの工事は3番艦鈴谷は公試運転前に,4番艦熊野は進水前に行われた。改造工事の結果喫水幅および喫水が増加し,最大速力は当初の37ktから35ktへ低下したが,全ての問題を解決することができた。

最上の船体強度構造

砲塔旋回不能事件

 船体強度を受け持つ高角砲甲板が3番・4番砲支塔に接続されていたため,温度変化による高角砲甲板の伸縮により砲支塔に変形を生じ,旋回不能になった。甲板と砲支塔の接続を無くしてこの問題を解決した。

 日本海軍では過去に駆逐艦・水雷艇に過剰な性能を要求した結果設計に無理を生じ,荒天航行中の水雷艇が転覆し乗員全員が殉職した事件(友鶴事件),特型駆逐艦が訓練中台風に遭遇し船体前部が切断した事件(第四艦隊事件)の経験がある。いずれも個艦優越主義と性能追求の行き過ぎがもたらした事件であり,最上級にも同じ問題が生じたことになる。

 性能改善工事後の最上級は高性能で用兵者の評判も良かった。基本計画の不備により当初は多くの問題を生じたものの,妥当な排水量の下ではこれだけの高性能艦を建造できたことは,当時の日本が(後進国であったにも関わらず)有していた建艦技術の高さの証明といえる。

性能改善後の最上 1938

性能改善後の最上

 舷側にバルジを装着して排水量を増加し,後部マストを低くして重心を下げた。カタパルトのスポンソン形状が変更され,また後部煙突周囲に機銃とその射撃指揮装置が装備されている。甲板・艦底部を中心に鋼板が追加され強度を増した。

 主砲の換装

 日本のロンドン軍縮条約破棄の通告により,1937年一杯で条約は失効した。これにより最上級は当初の予定通り主砲の20.3cm砲への換装が決定され,39年から40年にかけて工事が実施された。これは設計の当初から20cm砲の搭載を考慮して各部寸法が決定されていたために可能となったことだが,実際には弾火薬庫の改造などによりかなりの大工事となった。この改造により最上級は軽巡洋艦から重巡洋艦となり,日本海軍の巡洋艦戦力の中核となった。なお,この時陸揚げされた15.5cm砲は翌年完成した戦艦大和級の副砲,43年に完成した軽巡洋艦大淀の主砲として再利用された。

 重巡洋艦 最上級の実力

 利根級を日本海軍最良の巡洋艦とするなら,最上級は最強の巡洋艦といえる。10門の主砲門数は高雄級と同じだが射界はより広く,船体・儀装の全てにおいて進歩しており,実質的な戦闘力は上回っていたはずである。

 本級が主砲換装工事を終えた後,米海軍はそれが主砲の大口径化だったとは知らず,性能欠陥の改正工事により武装が減少したものと判断した。また本級は兵装・速力から考えて防御力が不足していると見なされていた。アメリカは1942年のミッドウェー海戦において,三隈の主砲が8インチになっていることを航空写真により初めて確認した。しかもこの際三隈が航空機により猛攻撃を受けながら,強靭な防御力により長時間浮力を失わなかったことは米海軍にとって大きな衝撃だったといわれる。アジアの後進国である日本が自国を上回る巡洋艦を建造できるはずはなく,数字上の兵装や速力で上回っている分どこかにしわ寄せがあるはず,と解釈したようである。

 現実の最上級はこうした欧米側の希望的観測を裏切って,攻防速とも優れ,改造後は欠点というべきものも無かった。アメリカは伝統的に防御力を重視するため,防御力では最上級に優るとも劣らないと思われるが,雷装を含めた攻撃力や速力において最上級は完全に優位に立っている。当時の同排水量の各国の巡洋艦同士がもし戦闘を行えば,恐らく最上級が最強だったであろう。

 終りに

 最上級の性能は正当に評価すれば米英の巡洋艦に比べ出色のものでした。当時は日本が極東の一小国から近代国家となってまだ70年,他のアジア諸国は全て植民地・準植民地にされていた時代です。工業水準も低い日本が,これだけの工業製品を(最上級に限らず)造り,アジアで唯一独立を維持し,曲がりなりにも列強の一員として欧米に伍していた事実は誇るに足ることであり正当に評価されてよいと思います。

 これらの当時最先端をゆく兵器開発は,今日では不毛で愚かな行為として,小学生の軍隊遊びの延長のような扱いを受けることもあります。しかしこれらは当時の国際情勢下で一国の独立を維持するために不可欠のものであり,必死の努力無くして為し得なかったことです。そのために当時の技術者達が払った努力を,現在の平和な状況の中から嘲笑う権利は誰にもないでしょう。歴史の中で恥じるべきを恥じ,誇るべきを正当に誇ろうとするとき,日本がかつて保持していたこれら高度な軍事技術は,現代社会で最も正当な評価を受けていないものの一つであると思うことがあります。


更新履歴

97.07.07  新規作成
97.08.09 船体横断面図(改造前・後)を追加
98.09.23 新造時の側面図を追加(それだけ)
98.10.03 性能改善工事後の側面図を追加
98.10.04 側面図の拡大図(1 m = 5 pixcel)を追加



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